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瞬間は無限にある

もともと、時代小説が好きな私は、池波正太郎から始まって、吉川英治、藤沢周平と読み継いできた。私の読書スタイルは基本的にその作家の作品をすべて読み尽くして次に移るという感じで、池波正太郎はそうでもないけれども、吉川英治と藤沢周平はたいていの作品は読んでいるはずである。

中学生頃は芥川龍之介に凝って、分かりもしないのにほとんどの作品を読んだ。そのおかげかどうか知らないが、作文が得意になり、未だに文章を書くことに関してはなんの苦もない。

それはともかく、藤沢周平の作品はほとんどを読んでいるが、藤沢周平に限っては、次の作家に移らず、同じ作品を何度も読み返している。一番好きな「蝉しぐれ」はたぶん4,5回ぐらいは読みとおしたはずである。なんといっても、「藤沢周平の欠点は藤沢周平以外の作品を面白くなくすることだ」と多くの藤沢周平ファンが公言してはばからないのに、私も全く同意でなのである。

そんな私であるが、病院勤めの関係もあって、テレビドラマの唐沢寿明主演の「白い巨塔」に痛く感動した。その縁で、原作も読んでみた。面白かった。ついでに昔大河ドラマで見た記憶のある「二つの祖国」も読んだ。これはちょっと重くてしんどかった。それ以外にも挑戦しようとしたが、重くてなかなか入りこめなかった。

というわけで、山崎豊子の作品は「白い巨塔」と「二つの祖国」しか読んでいないが、双方ともに共通することがある。主人公が最後に死ぬことだ。
主人公が最後に死ぬ結末について、どこかのブログが「気分が暗くなってしまった。こういう作品が増える世の中はいけない」というようなことを書いていた。こういう意見は、あんまり好きではない。人間はいつか必ず死ぬのであり、どのような出来事も生きている限りいろいろなことが並行して起こっており、死によってそれは終えんする。山崎豊子の作品はそのことを暗示しているように見える。

ところで、藤沢周平の作品は、「蝉しぐれ」などの一部の長編を除いて、その人の半生を描くというよりは、日常の一部を切り取ったものが多い。ほんのちょっとした出来事を作品として仕上げる手腕は、世界中のあらゆる作家のあらゆるジャンルの作品を読み尽くした作家が初めてなせる技である。しかるに、山崎豊子の作品は非常に長編で、最後に主人公が死ぬ。言い換えれば、主人公が死ぬまで、その作品は終わらないのである。

つまり、藤沢周平の作品はいわばホームビデオの短編であり、山崎豊子は長編のドラマ、あるいは映画であると言えると思う。(藤沢作品を原作とする映画は多くの場合、複数の作品を使って構成・脚色されている。)

そうすると、写真というのは何であろう。その作品のたった一部のシーンを切り取ったものといえるだろう。蝉しぐれでは、父の遺骸を運ぶ文四郎を涙を流しながら「ふく」が手伝っているシーン、とかになるか。しかし、その写真は、文四郎とふくのその後を暗示するようでなければなるまい。そうなると、これは絵画といった方が適切かもしれない。実際、文学作品をモチーフにした絵画は歴史上に多い。

しかし、考えてみれば、その写真は、文四郎とふくの、むしろその一瞬の気持ちを写しているかも知れない。その後の二人の関係を暗示させることより、その一瞬の表情から、その一瞬の感情を切り取っているのである。例えば文四郎がたまたま石につまづきかけていて、戸惑った表情を写真は切り取るかもしれない。そのように考えてくると、写真というのは現実の事象の一部を写してはいるが、その時間というのは文字通りそのシャッター速度、1000分の1秒とか100分の一秒とかの世界である。

つまり、写真は父を失った悲しみよりも、その一瞬の感情を写すもののようである。人を写せば父を失った悲しみの中で一瞬石につまずいた痛みの表情を写しだし、鳥を写せば生きるために必死に生きる一瞬を写し出し、花を撮れば短い命の美しい一瞬を写し出す。

私がここで掲載している写真のほとんどは、自宅から歩いていける程度の、かなり限られた範囲のものである。しかし写真が切り取る風景は一瞬である。私は写真に、日常の自然が見せる、無限の一瞬を残していきたいと考えている。

毎日の同じ道、同じ景色でも、その一瞬は無限にある。つまり、フィールドは有限でも、写真が切り取る瞬間は無限なのである。
by smashige | 2009-10-14 10:06

「『自然』に学び、生命について考える」をテーマに西播磨の自然をレポートします。


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